鹿 火 屋 の 由 来

江戸の浮世絵師、菱川師宣の「絵本月並の遊び」の中に“月千金芋一升や一五問“とゆう句があります。また、十五夜の月を賞して芋名月というほど、中秋に入ってからの里芋の味は一段と美味しさを加えます。

鹿火屋は、榛名山峰水沢山山麓海抜350メートルのところにあります。火山灰地の砂壌土の、山畑で作った里芋の味よさは広く認められております。いも串は、山家の百姓料理で、その素朴な味にふるさとの親しさがあります。

北群馬地方の方言で「田楽(でんがく)のことをレンガクといいます。

吉岡町上野田の森田本家所蔵の細川豊前守様御母公様御日記帳、天保九年五月廿五日、本陣にお泊り時の献立の中に、「いもれんがく」というのが記載されております。昔より吉岡町の里芋で作ったいも串は、自慢の味だったのです。

昔作物を荒らす野獣に備えるため、塹壕を数里亘って掘り、これを猪(しし)土手(どて)といいました。この猪土手が、鹿火屋の近く、滝ノ沢と午王沢との間に約千メートル昔時のまま姿で残っております。

鹿火屋とは、万葉集にも見え、猪土手と同じように、昔、猪や鹿の類が山畑を荒らすのを防ぐために、焚火をたき臭いものをくべる小屋のことをいったので、水沢道にふさわしく、山畑の中にぽっつり一軒だったので、そこで鹿火屋を屋号にした次第です。

    むささびの屋根に来てなく

             鹿火屋かな

                     洛山人

青い空、澄んだ空気、初夏山鳩やカッコウも近くの森でないています。
inserted by FC2 system